伊藤レポート3.0(SX版)とは|SXの3つの取組と価値協創ガイダンス2.0、SX銘柄はPBR1倍以上が条件

伊藤レポート3.0(SX版伊藤レポート)は、経済産業省が2022年8月に公表した「SX(サステナビリティ・トランスフォーメーション)」の報告書です。2014年の伊藤レポートと同じ伊藤邦雄氏が座長を務め、気候変動や人権などの社会課題への対応を、対処すべきリスクとしてだけでなく、長く稼ぎ続けるための経営変革の軸として位置づけました。
SXとは、社会のサステナビリティと企業のサステナビリティ(稼ぐ力)を「同期化」させ、そのために経営・事業を変革することです(報告書 p.2)。
SXを実現する取組として、①目指す姿の明確化、②長期戦略の構築、③KPI・ガバナンスと投資家との対話による磨き上げの3つを挙げ、同時に改訂した「価値協創ガイダンス2.0」を、企業と投資家が開示と対話に使う共通の枠組みとしました。
その後、経済産業省と東京証券取引所は「SX銘柄」の選定を始め、2026年は15社を選びました(PBR1倍以上が必須条件)。選ばれた日立製作所は、上場子会社を22社から0社に減らして社会インフラのデジタル化に事業を絞り込んだ会社で、こうした事業の入れ替えもSXの形の1つです。有価証券報告書では2027年3月期から、時価総額3兆円以上のプライム企業にSSBJ基準でのサステナビリティ開示が義務づけられます。
ただし、SX銘柄に応募した70社のうち、事業ごとの資本コストを数字で開示している会社は10%にとどまります(経済産業省「SX銘柄2026レポート」)。この記事では、報告書の中身を原本に沿って整理し、統合報告書や有価証券報告書のどこを見ればSXの本気度を確かめられるかまでまとめます。
この記事の内容(目次)
伊藤レポート3.0とは——SXを打ち出した2022年の報告書
伊藤レポート3.0は通称で、正式には経済産業省の「サステナブルな企業価値創造のための長期経営・長期投資に資する対話研究会(SX研究会)」の報告書です(経済産業省「伊藤レポート3.0(SX版伊藤レポート)」)。
公表:2022年8月31日(報告書の日付は8月30日)。価値協創ガイダンス2.0と同時に公表(経済産業省 ニュースリリース 2022年8月31日(Internet Archive保存版))
座長:伊藤邦雄(一橋大学CFO教育研究センター長、2022年8月時点)。委員は企業の役員や運用会社の責任投資担当など20人
検討:SX研究会は2021年5月から計8回。ガイダンス改訂のワーキング・グループ(2021年11月から2回)と並行して議論
分量:PDFで33ページ(参考資料・委員名簿を含む)
報告書は自らをSXの「理論編」と位置づけ、実務で使う「実践編」として価値協創ガイダンス2.0・人材版伊藤レポート2.0(2022年5月)・人的資本可視化指針(2022年8月)を併せて使うよう勧めています(伊藤レポート3.0 p.4)。
伊藤レポートの系譜では、2014年の本体(ROE8%)、2017年の2.0(無形資産・ESG)、2020年の人材版に続く位置にあります。系譜の全体と2014年の本体の中身は、こちらの記事で扱っています。

伊藤レポートとは|ROE8%提言と2.0・3.0・人材版の違い、東証のROEは公表時7.6%→8.7%に
伊藤レポートは2014年8月に経済産業省が公表し、最低限8%を上回るROEを求めた報告書です。2.0・人材版・3.0の違い、CGコード・東証要請との関係、東証のROEが公表時7.6%→8.7%、PBRが1.2倍→1.8倍になった推移とPERの寄与まで。
なぜ3.0が出たのか——ROEは改善しても成長投資と市場の評価が伴わない
報告書は冒頭で、2014年の伊藤レポート以降、日本企業の収益は回復したものの、資本効率は欧米企業に水をあけられたままで、長期成長に向けた投資も伸び悩んでいると指摘しました(伊藤レポート3.0 p.2)。背景として挙げたデータは次のとおりです(p.15)。
ROEと資本コストの認識のずれ:企業の約5割が「自社のROEは資本コストを上回っている」と答える一方、投資家は9割超が「同程度」か「下回っている」と回答(生命保険協会の2022年4月の調査)
PBR1倍割れが約4割:日本の主要上場企業の約4割がPBR1倍を下回っていた(2021年末)
利益は現預金に積み上がった:経常利益と現預金は増えたのに、人件費や設備投資など中長期の成長に向けた配分は低い水準のまま
報告書は、成長投資への配分の少なさが投資家の厳しい評価(低いPBR)につながっている、という見方も紹介しています(p.15)。利益は増えても、それを成長に回す道筋が見えないから株価が評価されない。これが3.0の示した現状認識の1つです。
もう1つの背景が、サステナビリティをめぐる環境の変化です。気候変動・人権に加え、サイバーセキュリティや経済安全保障まで課題が広がり、サステナビリティへの対応は「対処すべきリスク」から「経営戦略の根幹」になりつつある、と報告書は書いています(p.2、p.6)。
SXという言葉自体は、2020年8月に経済産業省の「サステナブルな企業価値創造に向けた対話の実質化検討会」の中間取りまとめで提唱されたものです(p.25)。3.0はこれを引き継ぎ、中身を具体化しました。
SXとは——社会と企業のサステナビリティを「同期化」する経営変革
報告書の定義は次のとおりです(伊藤レポート3.0 p.2)。
「SX(サステナビリティ・トランスフォーメーション)」とは、社会のサステナビリティと企業のサステナビリティを「同期化」させていくこと、及びそのために必要な経営・事業変革(トランスフォーメーション)を指す。
「社会のサステナビリティ」は持続可能な社会への要請に応えること、「企業のサステナビリティ」は企業が長く成長の原資を生み出す力(稼ぐ力)を保ち、強めることです。社会の持続可能性に役立つ価値を長く提供することで、自社の稼ぐ力も高める。この2つを同じ方向にそろえ、そのために事業や経営を変えることをSXと呼んでいます。
社会貢献ではなく「稼ぐ力」の話
SXは慈善活動や広報の話ではありません。報告書は、企業が生み出す最終利益は株主に帰属すると明記したうえで、顧客・取引先・地域社会などの課題を解決して対価を得て、それを利益の分配と再投資に回す循環として価値を捉えるよう求めています(p.5)。収益とのつながりを見失って「ステークホルダーに対する利益一辺倒」になると、かえって変革が遅れるという注意も書かれています(p.6)。
SX銘柄の募集要領は、SXを「資本効率性を意識した経営・事業変革」と言い換え、「事業を通じた企業価値創造と直接の関係が薄い、いわゆる社会貢献活動とは異なります」と明記しています(「SX銘柄2026」募集要領 p.3)。同じ「脱炭素」という課題でも、取り組み方で次のように分かれます。
社会貢献(CSR)型:利益の一部を植林や環境団体への寄付に回す。社会の役には立つが、事業の中身と稼ぐ力は変わらない
SX型:脱炭素を事業の機会として取り込み、稼ぎ方そのものを変える。東京ガスは合成メタン(e-methane)や再エネを事業として育て、その投資を事業ごとの資本コストを上回るかどうかで選んでいる(後述の「具体例で見るSX」)
GX・DXとの関係
報告書は、脱炭素のGX(グリーン・トランスフォーメーション)を、気候変動を含む幅広い課題を扱うSXの中に位置づけ、DX(デジタル・トランスフォーメーション)と一体で進めるよう勧めています(p.3)。中期経営計画にGX・DX・SXが並んでいたら、GXはSXの一部、DXはそれと一体で進めるものと読むと整理しやすくなります。
SXを実現する3つの取組と、投資家の見どころ
報告書は、SXを実現する具体的な取組を3つに整理しました(伊藤レポート3.0 p.8〜9)。それぞれ、投資家が企業の資料で確かめられる点を添えます。
① 社会のサステナビリティを踏まえた「目指す姿」の明確化
価値観(判断の軸)を明確にし、事業を通じて解決する重要課題(マテリアリティ)を特定する
そのうえで、社会にどう価値を提供し、どう長期の企業価値を高めるかという目指す姿を決める
決め方は、将来の社会変化から逆算するバックキャスティングと、自社の強みを伸ばすフォアキャスティングの組み合わせ
投資家の見どころ:重要課題の一覧が同業他社とほとんど同じになっていないか。報告書も、社会課題は業界内で共通になりやすく、横並び(ハーディング)で独自性を失うと利益の取り合いに陥ると警告しています(p.7)。
② 目指す姿に基づく長期戦略の構築
長期戦略=長期ビジョン・ビジネスモデル・リスクと機会を一体で考える「大戦略」
目指す姿と今の自社とのギャップを埋めるため、事業ポートフォリオ戦略・DX・イノベーション・人的資本への投資・知的財産を含む無形資産投資を短期・中期・長期で進める
ギャップを正しく測るため、財政状態と経営成績の分析(MD&A)を重視する
投資家の見どころ:中期経営計画の投資額や事業の入れ替えが、長期ビジョンとつながって説明されているか。長期ビジョンと中計の数字が別々に書かれていると、目指す姿は掛け声にとどまります。
③ KPI・ガバナンスと、投資家との対話による磨き上げ
戦略だけでなく価値観・重要課題ともつながるKPIを置き、長期でどう達成するかの見通しを示す
取締役会と経営陣の役割を分け、KPIと連動した役員報酬や株式報酬など中長期のインセンティブを設計する
投資家との対話で価値創造ストーリーを磨き続ける。その際、開示が定型文(ボイラープレート)にならないようにする
投資家の見どころ:役員報酬の業績連動部分に、ROEや独自のKPIが入っているか。有価証券報告書の「役員の報酬等」や株主総会の招集通知で確かめられます。
具体例で見るSX——日立・レゾナック・東京ガス・エーザイは何を変えたか
経済産業省と東証が選ぶSX銘柄(2024〜2026年、仕組みは後述)から、何を変え、数字がどう動いたかを一次資料で追える4社を取り上げます。PBRは2026年9月30日終値(過去は月末値)、ROEは純利益÷純資産でKabuGraph算出です。指標の変化には景気や業界の動きも重なるので、SXの取組だけの成果とは言えません。
日立製作所——上場子会社を22社から0社に減らし、社会インフラのデジタル化へ
目指す姿:「社会イノベーション事業」を唯一の存在価値と定め、データとテクノロジーでサステナブルな社会をめざす(日立 統合報告書2023 p.7)。長期目標は、デジタル事業「Lumada」の売上収益比率80%・利益率20%(Lumada 80-20)
何を変えたか:上場子会社を2009年3月の22社から2022年度に0社へ(同 p.14)。日立化成・日立金属を売却し、日立建機・日立物流も株式を売却して連結から外した。一方でABBのパワーグリッド事業やGlobalLogicを買収した(同 p.7、p.48)
数字:ROEは2017年3月期の5.6%から2026年3月期は11.8%へ。PBRは2017年3月末の0.98倍から2026年9月30日は3.76倍へ
確かめる資料:統合報告書と決算説明資料。買収・投資はROIC 12〜13%などをハードルレートにし、ROICがWACCを上回るまでの期間を検証してから実行すると説明している(SX銘柄2026レポート p.69)
日立製作所
日立製作所は、デジタル技術とインフラ融合による社会課題解決を掲げる総合電機メーカーです。IT・クラウド、電力システム、鉄道、エレベーター、家電など多岐にわたる製品・サービスを世界規模で提供しています。デジタルソリューション「Lumada」を…
レゾナック・ホールディングス——石油化学を切り離し、半導体材料を軸に
目指す姿:2023年に昭和電工と日立化成が統合して発足。2030年までに「世界トップクラスの機能性化学メーカー」をめざし、半導体電子材料を競争力の柱に置く(SX銘柄2026レポート p.77)
何を変えたか:石油化学事業を子会社のクラサスケミカルに移し、パーシャル・スピンオフした。2024年2月に検討開始を公表し、2026年8月25日に実行を決議。クラサスケミカルは9月29日に東証スタンダード市場へ上場し、10月1日付でレゾナック株1株につき1株を株主に現物配当。レゾナックの持分は20%未満になる(レゾナック 2026年7月6日のお知らせ、同 9月7日)
数字:ROEは2025年12月期で4.0%と低い。PBRは選定審査の1年平均(2024年9月〜2025年8月)で1.0倍だったが、2026年9月30日は3.88倍(純資産は2025年12月末)
確かめる資料:事業ごとに「戦略適合性」「採算と資本効率」「ベストオーナー(自社が最適な持ち主か)」の3つの軸で判断している点が評価された(SX銘柄2026レポート p.76)。統合報告書のポートフォリオの説明で確かめられる
東京ガス——事業ごとに資本コストを決め、ROICで投資を選ぶ
目指す姿:経営ビジョン「Compass2030」で「安定供給とカーボンニュートラル化の両立」を掲げ、e-methane(合成メタン)・再エネ・水素・CCUSを段階的に取り込む(SX銘柄2026レポート p.61〜62)
何を変えたか:事業ごとに「期間WACC」を定め、それを上回るリターンの投資に絞る。2024年度に不動産を含む全資産の「事業仕分け」を行い、2026年度からはカンパニー・事業会社ごとのROIC管理を始めた(同 p.63)
数字:2025年度見通しでは、ソリューション(ROIC 1.0%)と海外(6.5%)がそれぞれのWACC(4.0%・8.0%)を下回る。2028年度計画でソリューションは5.0%に上がるが、海外は7.0%でWACCに届かない(東京ガス「2026-2028年度 中期経営計画のスタートにあたって」p.2)。PBRは選定審査の1年平均の1.0倍から、2026年9月30日は1.20倍
東京ガスの事業別ROICと資本コスト(WACC)
東京瓦斯
首都圏を中心に都市ガスを供給する国内最大のガス会社(東京ガス)。LNGの調達・製造から導管による供給・販売までを一貫して手がける。電力小売やエネルギーソリューション提案にも注力し、法人向けにガスコージェネレーションや省エネ提案を展開。海外で…
エーザイ——ROEは4%台でも選ばれた
目指す姿:企業理念hhc(ヒューマン・ヘルスケア)を起点に、認知症・がん・グローバルヘルスを重要課題とし、2030年の「社会善」から逆算して戦略を組む(SX銘柄2026レポート p.40〜41)
何を変えたか:人件費を「コスト」ではなく「投資」と捉え、社員のエンゲージメントなど人的資本のKPIを役員報酬と連動させた(同 p.42)。株式報酬は「ESG EBIT」「相対PBR」「全社マテリアリティ」の達成度で決める(エーザイ コーポレート・ガバナンス報告書 2025年6月18日)
数字:ROEは2026年3月期で4.2%。自社では株主資本コストを8%と仮定しており(同)、足元ではそれを下回る。PBRは2026年9月30日で1.52倍
読み方:SX銘柄は、足元の数字より価値創造ストーリーとKPI・対話の仕組みを評価する。選ばれたことは、数字が良いことを意味しない
4社に共通するのは、社会課題と結びつけた目指す姿を、事業の入れ替えや投資の物差し(ROICとWACC)という具体的な仕組みに落としていることです。一方で、ROEやPBRの水準は会社によってまちまちです。
価値協創ガイダンス2.0——統合報告書を読むための「共通言語」
価値協創ガイダンスは、企業が「価値観→戦略→成果→ガバナンス」を1本のストーリーとして投資家に伝えるための枠組みです。2017年5月に初版がつくられ、2022年8月30日に2.0へ改訂されました(経済産業省「価値協創ガイダンス2.0」)。項目は、価値観・長期戦略・実行戦略(中期経営戦略など)・成果と重要な成果指標(KPI)・ガバナンス・実質的な対話・エンゲージメントの6つです。
2017年の初版とは項目が入れ替わっています。初版の「ビジネスモデル」と「持続可能性・成長性」は新設の「長期戦略」にまとめ直され、「実質的な対話・エンゲージメント」が加わりました。価値観・戦略(2.0では実行戦略)・成果とKPI・ガバナンスは初版からある項目で、その読み方は伊藤レポート2.0の記事で扱っています。この記事では、2.0で新しく加わった点を中心に見ます。
2017年版から何が変わったか
改訂のポイントは5つです(伊藤レポート3.0 p.10)。
全項目に、持続可能な社会に向けて長く価値を提供する重要性(SXの意義)を明記
「長期ビジョン」「ビジネスモデル」「リスクと機会」からなる「長期戦略」を新設
TCFD提言のガバナンス・戦略・リスク管理・指標と目標に対応する項目で開示できる構成に
実行戦略の中で人的資本への投資・人材戦略を強調
「実質的な対話・エンゲージメント」を新設
3つ目の変更で、ガイダンス2.0の項目は、有価証券報告書のサステナビリティ欄やSSBJ基準と同じ4つの構成要素に対応づけられるようになりました(後述)。初版の6項目と伊藤レポート2.0の中身はこちらです。

伊藤レポート2.0とは|無形資産・ESG投資の2017年報告書、価値協創ガイダンス6項目の使い方と人材版2.0との違い
伊藤レポート2.0は2017年10月に経済産業省が公表した無形資産・ESG投資の報告書です。費用処理で削られやすい無形資産投資の問題、価値協創ガイダンス6項目、8つの提言、TOPIX500のPBR1倍割れ38%→19%の変化、人材版2.0との違いまで。
2.0で加わった読みどころ——事業ごとの資本コストと対話の反映
ガイダンスは初版から企業だけでなく投資家の手引も兼ねており、2.0も念頭に置く読み手を「長期的かつ持続的な企業価値向上に関心を持つ機関投資家や個人投資家」としています(価値協創ガイダンス2.0 p.7)。3.0は運用会社・アナリスト・ESG評価機関にもガイダンスを使った長期目線の評価を求め、スチュワードシップ・コードにも触れています(伊藤レポート3.0 p.12〜13)。
過去5〜10年のTSR(配当込みの株価上昇率)で株主がどう報われたかを示す、ROE・ROICと独自のKPIをつなげる、KPIが未達なら理由を説明する、利益分配の方針を示す、といった読み方は初版からのもので、2.0にも引き継がれています(p.44〜49)。2.0で新しく加わった読みどころは次の2つです。
資本コストは事業ごとに:全社の資本コストに加え、主要な事業セグメントごとの資本コストの認識を示すと有益とした(p.46)。多角化した会社なら、どの事業が資本コストを下回っているかが見えるようになる
対話を経営にどう反映したか:新設の「実質的な対話・エンゲージメント」で、対話で得た示唆を取組に反映し、その進捗や成果を再び対話にかける好循環を求めた。投資家の側にも「なぜその企業の株主になったのか」を見つめ直してから対話に臨むよう求めている(p.52)
「なぜその企業の株主になったのか」という問いは、個人投資家が議決権を行使するときや、株主総会で質問するときにも使えます。
SX銘柄——経産省と東証が選ぶ「SXの先進企業」
3.0は今後の方向性の1つとして「SXに積極的に取り組んでいる企業の選定・表彰」を挙げていました(p.14)。これを形にしたのが、経済産業省と東京証券取引所が共同で選ぶSX銘柄です(JPX「SX銘柄」を創設します 2023年2月10日)。
対象:東証の全上場会社(約3,900社)。企業が自ら応募する
必須条件:PBR1倍以上(応募前の1年間の月末PBRの平均。SX銘柄2026は2024年9月〜2025年8月。純資産から非支配株主持分を除いて計算)。中長期に株主資本コストを上回るリターンを生む企業から選ぶため
審査:価値協創ガイダンス2.0に沿った選択式の設問で一次審査、価値創造ストーリーを書く記述式で二次審査。特に「PBR1倍の壁を超えた経営・事業変革」を重視
目的:選んだ企業を「これから変革していく日本企業の象徴」として示し、日本株全体への再評価を促す
(「SX銘柄2026」募集要領 p.9〜10・p.21〜22・p.24)
募集要領は、PBRをROE(経営の効率性)とPER(成長期待)の掛け算として説明し、自社株買いなどの一過性の対応にとどまらず、高いROEを保ちながら成長戦略でPERを高める経営をSXを軸に進めるよう求めています(p.23)。PBR=ROE×PERの関係はPER・PBR・ROEの記事で扱っています。

PBR(株価純資産倍率)とは|1倍割れ問題と東証改革の核心
PBR(Price Book-value Ratio)の計算式・目安・1倍割れ問題を解説。東証が改善を要請した背景と、PERやROEとの関係から投資判断に活かす方法がわかります。
選ばれた企業(2024〜2026年)
SX銘柄2024(2024年4月23日、初回):15社(JPX「SX銘柄2024」の公表について)
SX銘柄2025(2025年5月14日):13社。ほかに「SX注目企業」2社(経済産業省「SX銘柄2025」「SX注目企業2025」を選定しました)
SX銘柄2026(2026年5月18日):15社。SX注目企業はキオクシアホールディングスと三井倉庫ホールディングスの2社(経済産業省「SX銘柄2026」)
SX銘柄2026の15社は、アシックス、味の素、エーザイ、SWCC、ソフトバンク、第一三共、TDK、東京応化工業、東京海上ホールディングス、東京ガス、ニチレイ、日立製作所、村田製作所、りそなホールディングス、レゾナック・ホールディングスです。3年続けて選ばれたのは味の素と第一三共の2社で、6社が初めて選ばれました。
味の素
アミノ酸技術を基盤とするグローバル食品・バイオ企業。「味の素」「ほんだし」「Cook Do」などの調味料、「クノール」スープ、冷凍食品「ギョーザ」を主力に、世界130以上の国・地域で食品事業を展開する。食品に留まらず、アミノ酸の応用技術を活…
応募は初回が159社、2025年と2026年は各70社でした(SX銘柄2024レポート p.9、SX銘柄2025レポート p.11、SX銘柄2026レポート p.10)。毎年の応募制なので、リストから外れた会社がSXをやめたとは限りません。
SX銘柄のPBRは中央値3.76倍、プライム全体の約2.8倍
2026年9月30日終値で見ると、SX銘柄2026の15社は全社がPBR1倍以上で、中央値は3.76倍でした。プライム市場全体の中央値1.35倍の約2.8倍です。ROE(直近の通期)の中央値は11.8%でプライム全体の8.6%を上回る一方、エーザイやレゾナック・ホールディングスのようにROEが4%前後の会社も選ばれています(ROEは直近通期の純利益÷純資産。KabuGraph算出)。審査に使うPBRは応募前1年間の平均なので、ここでの時点とは基準が違います。
審査で問われているのは足元のROEの高さより、PBR1倍以上という市場の評価と、それを支える変革の道筋だと読めます。
応募企業でも進んでいない開示——投資家が確かめたい5つの点
SX銘柄2026レポートは、応募した70社がガイダンス2.0に沿った設問にどこまで取り組んでいるかを集計しています(経済産業省「SX銘柄2026レポート」p.11〜15)。重要課題の特定は全社がしている一方、事業ごとの資本コストを数字で開示している会社は1割でした。
取組 | 応募全企業 | SX銘柄 |
|---|---|---|
重要課題(マテリアリティ)を特定 | 100.0% | 100.0% |
KPIの達成状況を対話で示す | 97.1% | 100.0% |
対話で得た示唆を経営改善に反映 | 44.3% | 60.0% |
ROIC分析などで事業ポートフォリオ戦略 | 38.6% | 46.7% |
他社との差別化要素と持続性を特定 | 22.9% | 40.0% |
取締役の財務リテラシー向上 | 18.6% | 26.7% |
将来から逆算して目指す姿を設定 | 14.3% | 26.7% |
事業ごとの資本コストを定量的に開示 | 10.0% | 26.7% |
上の2つは、ほとんどの会社が「やっている」と答える定番です。差がつくのは下の方で、SX銘柄に選ばれた会社でも3割に届かない項目があります。逆に言えば、ここを具体的に開示している会社は、SXを掛け声でなく経営の仕組みとして回している可能性が高いと言えます。
統合報告書・中計で確かめる5つの点
事業ごとの資本コストとROIC:全社のROEだけでなく、事業セグメント別にROICと資本コスト(WACC)を示し、下回る事業の扱いを説明しているか(決算説明資料・中期経営計画)
目指す姿と中計の数字のつながり:長期ビジョンから逆算して、中計の投資額や事業の入れ替えが決まっているか(統合報告書・中期経営計画)
KPIの達成状況と未達の理由:前の中計のKPIを振り返り、未達の理由を自社の戦略に照らして書いているか(統合報告書・決算説明資料)。2026年7月改訂のコーポレートガバナンス・コードも、中期経営計画が目標未達に終わったら原因と対応を分析して株主に説明し、次の計画に反映するよう求めている(原則4-1の解釈指針。東証「コーポレートガバナンス・コード(2026年7月版)」p.17〜18)
役員報酬とKPIの連動:業績連動報酬の指標にROE・ROICや独自のKPIが入っているか(有価証券報告書「役員の報酬等」・招集通知)
対話を経営に反映した実例:投資家との対話で出た意見を受けて、何を変えたかを書いているか(統合報告書・コーポレート・ガバナンス報告書)
事業ごとの資本コストをWACCで定量的に説明している例として、レポートは味の素と東京ガス(数字は上の「具体例で見るSX」)を挙げています(SX銘柄2026レポート p.26〜27)。味の素は2025年3月期の決算説明会資料で、2024年度の調味料・食品のROIC 17.6%がWACC 7%を大きく上回る一方、冷凍食品は2.4%でWACC 5%を下回ることを示しています(同 p.26に掲載)。
資本コスト(WACC)の考え方と計算、事業ごとに投下資本の効率を見るROICは、それぞれこちらの記事で扱っています。

WACC(加重平均資本コスト)とは|計算式・CAPMの使い方・ROIC≧WACCの判定を図解
WACC(加重平均資本コスト)の計算式をCAPMモデルから順を追って解説。株主資本コスト・負債コスト・実効税率の求め方、ROIC≧WACCで測る価値創造の判定基準、業種別の目安まで、個人投資家が使える水準でわかります。

ROIC(投下資本利益率)とは|WACCとの差で測る価値創造、中央値5.8%の読み方とオムロン・花王の実例
ROIC(投下資本利益率)の計算式・目安をわかりやすく解説。WACCとの関係、業種別の中央値データ(ザイマニ集計)、オムロン・花王のROIC経営事例から、投資判断への活用法がわかります。
SSBJ基準の義務化——SXの開示が有価証券報告書で比べられるように
3.0は、ISSB(国際サステナビリティ基準審議会)の設立や欧米の開示規制など、サステナビリティ開示の基準づくりが急速に進んでいることを取り上げ(伊藤レポート3.0 p.22〜23)、ガイダンス2.0をTCFDの4つの構成(ガバナンス・戦略・リスク管理・指標と目標)に合わせました。その後、日本でもこの構成に沿った開示が制度になっています。
2023年3月期:有価証券報告書に「サステナビリティに関する考え方及び取組」の欄を新設。ガバナンスとリスク管理は必須、戦略と指標及び目標は重要性に応じて記載(金融庁 開示府令改正 2023年1月31日)
2025年3月:サステナビリティ基準委員会(SSBJ)が日本初のサステナビリティ開示基準(ユニバーサル基準・一般開示基準・気候関連開示基準)を公表。ISSB基準と整合させ、ガバナンス・戦略・リスク管理・指標及び目標の4つで開示を求める(SSBJ 2025年3月5日)
2026年1月:金融審議会のワーキング・グループが報告を公表。時価総額の大きい会社から順に適用を広げ、適用の翌年から第三者保証を義務づける方針を示した(金融庁 ワーキング・グループ報告 2026年1月8日)
2026年2月:金融庁が開示府令を改正し、プライム市場の平均時価総額1兆円以上の会社にSSBJ基準での有価証券報告書の作成を義務づけ(金融庁 開示府令等の公布 2026年2月20日)
2026年7月:サステナビリティ情報の第三者保証の義務づけなどを盛り込んだ改正金融商品取引法(金融商品取引法及び資金決済に関する法律の一部を改正する法律)が7月15日に成立(金融庁 第221回国会提出法案)
平均時価総額(プライム市場) | SSBJ基準の適用 | 第三者保証※ |
|---|---|---|
3兆円以上 | 2027年3月期 | 2028年3月期 |
1兆円以上3兆円未満 | 2028年3月期 | 2029年3月期 |
5千億円以上1兆円未満※ | 2029年3月期 | 2030年3月期 |
5千億円未満※ | 今後検討 | — |
3兆円以上と1兆円以上の段は2026年2月の府令で確定しています。※を付けた段と第三者保証の開始時期はワーキング・グループ報告の方針で、保証の制度そのものは2026年7月成立の改正金融商品取引法で導入が決まりました。
適用初年度と翌年度は、SSBJ基準で求める情報を後から訂正報告書で出す「二段階開示」も認められます。2027年3月期の有価証券報告書から、時価総額の大きい会社の気候関連などの開示が同じ基準でそろい、比べやすくなります。
ただし、共通の基準は開示の型をそろえるもので、SXの中身を保証するものではありません。3.0は、開示が定型文に陥らないよう自社固有の価値創造ストーリーに根ざした開示を求め(p.9)、ストーリーの中にサステナビリティの取組を位置づければ、多様な開示の要請にも効率的に対応できるとしています(p.14)。
同じ2026年2月の改正で、有価証券報告書の人的資本の開示も拡充され、企業戦略と関連づけた人材戦略や、従業員の平均給与の前年比増減率などの記載が求められるようになりました(2026年3月期から)。有価証券報告書で人的資本の数字をどう読むかは、こちらの記事で扱っています。

人材版伊藤レポートとは|3P・5Fと2.0の違い、有報の人的資本開示(平均給与は前期比中央値+3.2%)
人材版伊藤レポートは2020年9月に経産省が公表し、経営戦略と人材戦略の連動を求めた報告書です。3P・5F、人材版2.0との違い、2026年3月期から有報に載った人材戦略と平均給与の増減率(上場2,034社の中央値+3.2%)を日立・ソニーの実例で解説。
よくある疑問
伊藤レポート3.0に法的な拘束力はある?
ありません。研究会の報告書と、企業が任意で使うガイダンスです。企業に対応を求める仕組みになっているのは、東証の上場規則に組み込まれたコーポレートガバナンス・コード、東証の「資本コストや株価を意識した経営」の要請、そして開示府令(SSBJ基準の義務化)です。

コーポレートガバナンス・コードとは|2026年改訂で83原則→30原則に、独立社外取締役3分の1以上の会社は6.4%→98.8%
コーポレートガバナンス・コードは東証が定める上場企業の行動原則で、実施しない原則は理由を説明すれば足ります。2026年7月の改訂で補充原則を廃止し83原則→30原則に。市場区分ごとの適用、CG報告書の読み方、独立社外取締役3分の1以上の会社が6.4%→98.8%に増えた変化まで。
SXとESG・CSRは何が違う?
ESG:環境・社会・ガバナンスの観点。主に投資家が企業を評価するときの切り口
CSR:企業の社会的責任。社会貢献活動を含む
SX:社会課題への対応を、稼ぐ力と企業価値を高める経営・事業変革として行うこと。社会貢献活動とは別物(「SX銘柄2026」募集要領 p.3)
伊藤レポート2.0や人材版2.0とは何が違う?
伊藤レポート2.0(2017年10月):無形資産とESGへの長期投資。価値協創ガイダンス(初版)とセット
人材版伊藤レポート2.0(2022年5月):人的資本経営の実践。3.0と同じ年に出たが、別の検討会の報告書
伊藤レポート3.0(2022年8月):SX。価値協創ガイダンス2.0とセット
それぞれの中身は、伊藤レポート2.0の記事と人材版伊藤レポートの記事をご覧ください。
まとめ
伊藤レポート3.0(SX版伊藤レポート)は2022年8月に経済産業省が公表。SX研究会(座長・伊藤邦雄氏)の報告書で、価値協創ガイダンス2.0とセット
SX=社会と企業のサステナビリティの同期化と、そのための経営・事業変革。社会貢献ではなく、稼ぐ力と企業価値の話
実現の取組は①目指す姿の明確化、②長期戦略の構築、③KPI・ガバナンスと対話による磨き上げの3つ
実例では、日立は上場子会社を22社から0社に、レゾナックは石油化学をスピンオフ、東京ガスは事業ごとのWACCで投資を選別。エーザイのようにROEが4%台でも選ばれる
ガイダンス2.0は個人投資家も読み手に想定した手引。長期戦略と実質的な対話を新設し、有価証券報告書・SSBJ基準と同じ4つの構成要素に対応
SX銘柄はPBR1倍以上が必須。2026年は15社で、PBRの中央値は3.76倍(プライム全体は1.35倍、2026年9月30日)。買い推奨のリストではない
応募企業でも事業ごとの資本コストを定量的に開示しているのは10%。ここを具体的に書いているかが、SXの本気度を見分ける手がかりになる
SSBJ基準は2027年3月期から時価総額3兆円以上のプライム企業に義務化され、1兆円以上(2028年3月期)へと広がる








